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 一体何が始まるのかといぶかしげな顔の彼女。これから彼女はほふり場に引かれていく子羊のような運命をたどるとは誰が想像がつくでしょうか。

それとは対照的に机を隅に寄せ場を黙々と整える父親は上機嫌そのもの。今にも踊りだしそうな、というようより文字通り早くもステップを踏んでいます。普段から陽気な母親は夕食時のコップ一杯のワインが効いて来たのか、謎のハイテンション。こうなるともう、誰も止める人間がいません。

一方の私と彼女は、早朝から軽井沢で続いた長時間の打ち合わせと移動でへとへとです。が、いつに無く楽しそうにシャッセがどうとかフィスクがどうとか、ああでもないこうでもないやっている両親を見るとこちらも何だか嬉しくなって来る物です。

覚悟を決め、彼女に「もう観念しなさい」と視線を送る。通じたかはわかりませんが。

こうして私たち夫婦初のワルツ講習会が始まるのです。

 

まずはお手本に、と父親がステップを踏み出す。体を壊してからまともな運動すら医者に止められてしまった父親は、腰の周りを上質な贅肉が被いとても元プロダンサーだったとは思えない体型なのです。

そんなビヤ樽父親が何気なく踏み出していくステップの一つ一つはとても流麗で見事な物でした。驚き、感心し惚けている彼女を見ると何だか私まで誇らしげになってきます。

足を踏み出し、軸足を引き寄せそのまま横にスライド。着地したつま先を其のままに体を上方に引き上げながら残した足を引き寄せる。そして引き寄せた足を静かに踏み下ろし体重を乗せかえる。

これを交互に繰り返しながら送り出す足の方向にあわせて体をくるくると回していく。一見シンプルな動きですが、これを一連の動作で踊りとしてやるのはとても難しい。

 

所定のホールを一連の流れで廻り切れるまでやって見よう。というのが今日の課題。ステップ①です。

しかし僕も彼女も自慢ではありませんが運動神経が退化し始めている人間です。中々思うようにイメージと体が一致しない。ああでもないこうでもないと失敗を繰り返しながら時間だけが過ぎていきます。

はじめは失敗する度に家族で笑い転げていたですが、それが徐々に険悪な雰囲気に。

生来の短気者である父親は、現在病状の故長時間立っている事が出来ないので椅子に座りながら指示を出すのですが、繰り返される失敗の度ごとに声色が硬くなっていくのが目に見えるのです。

いつしか其の手には見えない竹刀が握られ、まるで人生の最後に無刀の境地に到達した宮本武蔵のような威圧感。あたりの空気がぐにゃりと歪んで見えたのは私の幻覚でしょうか?

そんなこんな、踏み出す足が自分の物なのか彼女の足なのか判別もつかず混濁する意識の中、やっとのことでフロアを一周できたのはもう少しで日付が変わろうかという時刻でした。

それでも踊り切った時に嬉しそうに近寄ってくる父親の顔は妙に印象的なのでした。

いわく、男子がしっかり踊れなければ女子は練習にならない。という。これは彼女が木島に戻ってくる前にこっそりと練習して彼女を驚かしてやらなければなりません。

ギターでは、どんなに上達してもあまりその喜びを共有できなかったのですが、ダンスならば密かに上達して父親の目を丸くしてやれるかもしれない。そんな動機も少し、胸に抱えるようになったこのごろであります。