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プロのスポーツ選手は引退後第二の人生を歩くの甘言
三度目の教習所と単線回路
二度目の教習所を夜逃げしてから,又,違う教習所へ入会して今度は
個人レッスンだけにしておとなしく生徒でのレッスンだけで、ダンス教習所へ
通いはじめ踊っていました。そんな時季に転機が訪れました。どうも物事の
変化には時機があるようで、二者択一を迫られることになりました。

皆さんも、小学校に入学して“将来は何に成りたいですか”と、訊かれた覚えが
、有ると、思いますが、私は“社長になります”と答えました“どんな社長ですか”
“社長なら何んでも良いです”と答え、教室の皆に笑われましたが,本人は
真面目で本気でした。

私はその頃社宅のアパートに住んでいましたので、人間関係をみて、
子供心にもこれは“社長に成らねば”と固い決意でした。普通は、
大人になるに従い状況が変わり、環境の変化と知識の増加にともない、
いつしか,遠い子供の頃の話になるのですが,私は頭が単純に出来ていて,
単線回路しか無いらしく,一本道のままで、学業を、終えて,社会に出ても、
そのままでした。
ゼブラ、ボウルペンと、う会社の、研究室の、術開発部に勤務しましたが、
決意は変わりませんでしたので、入社後独立資金を蓄え始めましたが
その程度で出来る資金では限度があります。

でも、如何しても、独立したい為、その程度の資金で条件を満たせるものとして,
御花屋さんの車での引き売りを考えました。車1台とその改造費と、
資材一式の費用を用意して独立しようと、ゼブラを4年で退社して当時、
日本で、5本の指に入る御花屋さんへ丁稚に入りました。

その花屋で切花の扱いかた、店舗での商いのしかた、又、生け花界の
大きな流派の先生の水汲み、しながら、池ノ坊、古流, 草月流、小原流、等の、
葉物,枝物の組み合わせを教わりながら、個人的にも、生け花の流派の池ノ坊と
フラワーデザインスクールに通い、引き売りでの,独立の準備にそなえました,
又、花の栽培も考え友人から、300坪の土地を借りて、自力で開墾して
花の球根を植えて独立の準備の備えましたした。

2年で店の花の扱いは一様,覚えたので、次の段階として花の市場での、
取引を覚える為に、市場に就職しょうと御花屋さんを退社した時,にタイミングを
計ったように、ダンスのレッスンを終えたあと、ダンス教習所経営者のH先生に、
お茶に誘われ教師になるように言われたのです

ダンス教師に,誘われたのです,自分の周りの空気が動き始めました。
でも子供の頃からの計画の為に仕事を,止めたので,少し方向が違いますと
断りました。

{内心はやりたかったのです、でもそれとは別に,冷静に、自分を観ている
自分がいて, ダンスのレベル、体型、才能、どれを考えても向いてない、、
転向しても一流ダンサーは無理と判断してました。}

{アマチャ競技選手のレベルでさえ、私の出たような草競技会のレベルでない事も、
理解してましたから、断るしか、無かったのです。ですから誘われるまで、プロに成ろう
などと考えもしませんでした}

単純な頭のなかは単線回路の一本道で、社長を目指す道だけでしたから
所がH先生の、一言で、コロット変わったのです。今思うと、
自分の頭の単純さに呆れるのですが、

その一言とは、
“プロのスポーツ選手は、皆、夢に人生を、賭けて生きて引退後第二の人生を歩く”
“君も一寸だけダンスに、夢を賭けて第二の人生に花屋を選ばないか”
これを読んでる人、上手い事言うとおもいませか?、

もう,コロットその気になって{そうか、別に、一流に、ならなくても、
一寸寄り道して夢に賭けて, 引退したら花屋に成れば、良いか}これで、
頭の中の単線回路は,簡単に、ダンスと花屋が結びついてしまいましたので、
ダンス教師に、転向したのです。

(でも、その為に、手の皮を擦りむいて、血と豆だらけにして開墾した、
300坪の土地と、そこに植えた花の球根は、雑草に覆われた土地と
駄花になってしまいました)
プロのスポーツ選手は引退後第二の人生を歩く