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 一夜明け、彼女は先に東京に帰ります。あと二週間ほど今の仕事が残っているのです。

彼女は保険会社の事務の仕事をもう何年も続けていて、と書くと結構なキャリアウーマンの様で格好いいですが、何のことは無く一介の契約社員でありこの先も正規雇用の見通も立たないどこにでもいるOLさんでした。

その前の仕事はアパレルショップの店長をやっていてかなりバリバリ働いていたそうですが、ノルマに追われ、休日も気が休まることのない生活に嫌気がさして退社。その後今の仕事に流れつくと特に遣り甲斐や目標も持てないままに日々が流れてしまっていたそうです。

そんな女性が雪深く都会的な娯楽など何もなさそうな片田舎で、ペンションの女将さんという今まで経験したこともない様な業種にチャレンジするのですから、私の元に嫁ぐ決心をしたときも相当な覚悟を決めてきた事は想像に堅くありません。

ふと視線を上げれば空を遮る高いビルやどぎつい色彩の看板なんかはどこにも無く、右を見るなら延々と続く森。左をみるなら狸と狐とさるとカモシカの跳梁跋扈するような未開の、もしくは幾歳月のうちにすっかり打ち捨てられ自然に帰化してしまった里山の風情。こういう場所に居を構え、心の臓が止まるまで妻として夫を支え、母として子を育み、自然と向き合い土に返るまでを過ごすのです。

 私なんかは三十手前くらいから都会の生活に何処か生物的な違和感を覚え始め、どうしたら田舎で暮らしていけるかを気がつくと夢想していたような人間だったので、いざ故郷の家業を継ぐ事が出来ると決まったときには一も二も無く父親の提案に飛びついた物でした。

彼女は果たしてこの場所を気に入ってくれるでしょうか。いい忘れていましたが、彼女も長野県の産まれです。

木島平からもっと南にある駒ヶ根というところの出身なのです。故郷の両親に近い所で新生活を送れる、というのも彼女が首を縦に振ってくれた要因の一つ。

何処かには耐えられなくなったら実家に帰りやすい、という判断も無意識の中にあったのかもしれません。勿論逃がしはしませんが・・・くっくっく。

 

さて、彼女が一時去り、私は冬越えの準備と時期シーズンの営業の備えに忙殺される日々に戻ります。その合間合間でいよいよワルツの個人練習にも励むのであります。

誰もいない地下ホールはこの季節になるとしんしんと冷え込みます。深い山の静寂、冷たく澄んだ空気。ここは何処か武道場のような凛とした空気に満ちています。舞踏も武道も元は一つだ、と何かの本で読んだことがあるのですが、なるほど、と一人勝手に納得してみたりするのです。勿論漫画からの知識ですが。

まだ足取りのおぼつかない、とてもじゃないがノーミスでホールを一周なんて出来ないよちよち歩きの初心者。周りに誰もいないのは本当に助かります。

一つ一つの動作をゆっくり体に、頭にしみこませるように何度も反復していくのです。とてもじゃないが通常のダンススタジオなんかじゃ恥ずかしくて練習する事が出来なかったでしょう。人の目を気にすることは20代前半くらいから無くなったと思っていたのですがこういうところはまだ無様な姿を人様に見られたくない、という意識が働いてしまうのです。

私はダンスをするのにとても理想的な環境にいる。どうしてこれまで自分も踊ってみようという考えが浮かばなかったのでしょうか。嗚呼。もったいない。